3/30、ドラマー・プロデューサーの
宮田繁男さんが亡くなった。
宮田さんと初めて一緒に音を出したのは
2000年にリリースした「限りなくあの空に近い」の
レコーディングのリハーサル。
吉祥寺のリハスタに来てもらい
初めて数曲をセッション。
その中で一番印象深かったのは
「走る人」。
この曲は、拍子がころころ変わるのと
構成が複雑なため、それまで
叩いてもらったドラマーの人すべてが
一種マニアックな方向に進んでしまい
はっきり言ってリズムが流れていかなかった。
でも宮田さんは、初めて音を出した瞬間から
私の歌と一緒にリズムがしっかりとまわり、最後まで
きれいに流れていった。
かと言ってただ一緒にまわり、流れていったのではなく
宮田さんの出したい音がちゃんと存在していた。
2回目の通しで、完成していた。
凄い!と思った。
この印象は、宮田さんとの最後のライヴになってしまった
2010年11月24日の渋谷プレジャープレジャーでの
「デビュー15周年記念ハシケン・フルバンドスタイル!!!」まで
変わることはなく一貫していたように思う。
改めてDVD化した「ハシケン・フルバンドスタイル!!!20101124」を
観てみた。
観る前は、感傷的になってしまうような気がしたが
観始めるとそんなことはなく、ライヴに引き込まれた。
私の歌や上にのる楽器が引き立つように、だけど自分の
揺るがないプレイを突き通す信念みたいなものが、
宮田さんのドラムから松永さんのベース同様飛び込んできて
涙があふれ出た。
ごくごく普通の音楽好きの人に、
私の歌をできるだけ良い形で伝えるために
力をそそいでいたのが宮田さんだった気がした。
DVDの冒頭を飾る「Shake me,Shake you」〜「存在しない」の2曲は
何度観ても気持ちいい。私がフルバンドで実現化させたかったものが
すべてつまっている。
メンバーそれぞれが奏で集まったそのバカでかい音の塊を
体いっぱいでうけとめ、時には背負い感じながら歌っている。
メンバーそれぞれが今まで経験し培って来た音が凝縮している気持ちいいカオス。
その中で、しっかりと支えていたのが宮田さんと松永さん。
奄美の「ワイド節」をフルバンドスタイルで演奏することになり
「走る人」のときのようにマニアックな方向ではなく
ポピュラー音楽の中での解釈を最大限してくれたのも
宮田さん、そして一緒にリズム隊を組んだ松永さんだったと思う。
フルバンドでリズム隊を組んでもらうようになってから
初期のころ宮田さんと松永さんは決めたことが1つあった。
それは「相手に合わせない」。
ドラムとベースがお互いのことを感じずに演奏するということは
普通はあり得ない。2人はあり得ない方に決めた。
だから面白かったんだと思う。
でも聴いてる方にとっては、とても合っているように
思えたはずだ。
別に2人が仲が悪かったわけではなく、お互いの
今までの経歴や演奏スタイルを尊敬しつつ選んだ道が
それだった。
へたな同調はせずにお互いを尊敬しあうことで
(実際ライヴ中、2人はほとんど顔を見合わせたり
アイコンタクトはとっていない)結果、強固で
唯一無二なリズム隊になった。
そして今にして思えば、2人がリズム隊として
「相手に合わせない」ことでそれぞれが、私の歌に
直接寄り添ってくれたような気がする。
「hasiken presents "WAIDO"」のスタジオ一発レコーディング。
東京・奄美でのフルバンドライヴ、寿町フリーコンサート。
「FUJIROCK FESTIVAL03」出演。
宮田さんと松永さんと私のトリオでのライヴでまわった北海道や沖縄。
いろいろな場面での宮田さんを思い出している。
宮田さんには、きびしいことを言われたり
意見が合わないこともあった。
正直面倒くさい先輩だと感じたこともあった。
良い意味で「目の上のたんこぶ」でありつづけ
私の音楽が色んな人に聴いてもらえるように、
広がるように常に考えてくれていた人だった。
私が音楽でやりたいことを具体化するために
いつでも最大限の演奏をやって見せてくれたことに
ただただ最大級の感謝しかない。
ずっと終わることなどないと思える
グルーヴを刻んでくれた宮田さんの音を実際に
体感することは、もうできないけど、
今でもあのドラムの音はしっかり私の中で
鳴っている。
数えきれないほどの長きに渡る数々のライヴサポート、
レコーディングに参加してきた宮田さんに
支えてもらって歌えたことを誇りに思う。