元はと言えば、2000年に奄美シマ唄の朝崎郁恵(あさざき・いくえ)さんとピアニスト高橋全(たかはし・あきら)さんとの共同作品「海美(あまみ)」(1997年リリース)を聴いたことに始まる。元が奄美のシマ唄と聞かされなければ、朝崎さんの声と高橋さんのピアノが誘(いざな)う世界は、どこの国か何がルーツか全くわからないほどだった。そのどこにも属さない圧倒的なオリジナリティと神聖さに非常に惹かれた。
初めて「海美」を聴かせてくれたのは、ライヴハウス「ASIVI」のオーナーであり「あまみエフエム」の理事長でもある麓憲吾(ふもと・けんご)。彼は私を奄美に2000年に初めて呼んでくれた人の1人であり今でもお世話になっているが、出会った頃私によくこんなようなことを言っていた。「自分やシマの人間たちのアイデンティティって何なのかってよく考えるんです。沖縄でもないし、鹿児島でもない・・。実際のところ、どの立ち位置にいてどこに属しているんだろうって」。その答えを私は「海美」に見た気がして彼に「どこにも属さないっていうのが奄美のアイデンティティなんじゃないのかなぁ」と奄美が背負ってきた歴史背景も当時よく知らずに身勝手ながら伝えた。
朝崎さんの声と高橋さんのピアノが、もしどこかの外国で作られた映画のエンディングで流れたら、この圧倒的なものが聴く人を捉えて、このどこにも属さないからこその強烈なオリジナリティを多くの人に伝えることができるはずだ、と感じた。だから沖縄や鹿児島でなくて、すでに奄美独自の「アイデンティティ」をこの島は持ってると思えた。初めて「海美」を聴いた2年後、元ちとせちゃんがメジャーデビューし「ワダツミの木」がミリオンセラーになった。ちとせちゃんが全国的に認知され、ちとせちゃん以前にデビューした奄美大島出身のアーティストのほとんどが「鹿児島出身」とプロフィールに書いていたが、ちとせちゃん以降は「奄美大島出身」とはっきり書くようになった。あとNHKの全国ニュースの天気予報に、ちとせちゃんが認知される前に「奄美」という表記はなかったらしい。今でこそLCCも飛び「奄美と沖縄の違い」や「奄美はかつて琉球王国の北端だったが、薩摩藩の琉球侵攻によって薩摩の『領地』になり、その後鹿児島県になった」ということをわかる人も増えたが、ちとせちゃんが売れる前は、今とかなり状況が違った。
大河ドラマ「西郷どん」で奄美編として当時の奄美が描かれていたが実際はもっともっと大変で過酷な状況だったと想像した(歴史に関してはいろんな立場からのいろんな説があるので興味がある人はぜひ自分で調べてくださいね〜)。
私は朝崎さんのような日々つちかってきたもの凄いシマ唄を歌うことはできないし、高橋さんのようにピアノテクニックやクラシックを始め多岐に渡る音楽的知識に裏打ちされたアレンジでピアノを弾くことはできない。でも「海美」で聴かせていただいたものに畏れながら匹敵できる楽曲を標準語で作り、私なりの朝崎さんと高橋さんへの答えを出したかった。そして「奄美」と「海美」へのお礼の「返歌」を書き上げたいという衝動がずっと私の心を突いて、なんとか創り上げようというモチベーションを保ち続け時間はかかったが完成できた。
来月10日の愛媛県新居浜市「あかがねホール」で私と奄美のシマ唄を今後引っ張っていく存在になっていくだろう中村瑞希ちゃんがボーカルを交互にとりあい、そこにベチコちゃんのバイオリンが絡むというスペシャルな形で演奏する予定。「青い月」を、「つむぐうた」コンサートを、ぜひ観ていただきたい。
『つむぐうた〜継いできた「うた」、継いでゆく「うた」〜』コンサート
「青い月」
作詞・曲:ハシケン
はるか産まれ土地を心に描くよ
長雨の後に雲は散り
太陽は降りそそぐ
すべてを赦(ゆる)すように等しく
赤土の浜で誰かが歌ううた
波の音にまぎれ ひたすらに
遠くの恋人を思う
美しいメロディ
怖い夢はもうここにはいないよ
もう一度眠りにつけるまで
髪をなでていよう
窓越しには青い月
はるか産まれ土地を心に描くよ
長雨の後に雲は散り
太陽は降りそそぐ
すべてを赦すように等しく
もの語りを
聴かせていこう
継いできたもの
継いでゆくもの

「海美」by 朝崎郁恵&高橋全
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「青い月」by ハシケン
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