
2019年04月10日
2019年04月09日
2019年04月08日
私のルーツ(リズムの源流)。
4月8日は花祭りということで思い出したことがある。デビュー前の1994年、東京築地にある「築地本願寺ブディストホール」でコンサートを姉にかなり協力してもらって開催したことがある。
そのコンサートのメインとして考えたのは私の故郷・埼玉県秩父に伝わる「秩父屋台囃子」と沖縄民謡の融合だった。日本三代曳山祭りの一つ「秩父夜祭(近年ユネスコ無形文化遺産に登録された)」は、秩父神社の女神様を載せた山車を町中練り歩き、秩父を象徴する山・武甲山の男神様と一年に一度引き合わす祭り事。この祭りに使われる山車はそれぞれ大きく、台車部分上部に屋台囃子を奏でる人たちが天井が狭いながらも入れるスペースがありその上で歌舞伎を演じる舞台も備わった豪勢な作り。江戸時代から行われてきた秩父夜祭は私にとって生まれた時から当たり前の行事。収穫が終わり冬の寒さが厳しさが増す(秩父地方は盆地ということもあり夏は40度くらいまで気温が上がり冬は気温がマイナスになる)12月1日から6日までの期間。6日間秩父神社の祭事はあるがメインは12月2日と3日。小さい頃はお祭りに連れていってもらって冬の乾いた空気に繰り出される豪華な花火を楽しんだ。大きくなってお祭りそのものに行かなくなっても遠くから聴こえてくる地をうねる様に響く屋台囃子と家の窓から見る花火は年末が来たんだなと思わせる最大の恒例行事だった。
秩父屋台囃子は数名の小太鼓に基本一人の大太鼓、鐘、笛で構成されている。小太鼓奏者と大太鼓奏者は途中で入れ替わっていく。集落によって屋台囃子のグルーヴは違う。私が知っていてしかも好きなグルーヴは小太鼓が「跳ねない」スクエアなリズムを刻み大太鼓が「跳ねる」リズムで乗っかっているものだ。このグルーヴが違うものを同一線上に載せ演奏するやり方は世界各地の民族音楽に多数見られる。小太鼓がひたすら「タンタカタカタカ・・・」とスクエアに刻む上に大太鼓が少し横揺れをしながら「ダッドン、ダダダダッドン」などと打っていく。
1993年に沖縄民謡を沖縄県沖縄市で習った時に色々な民謡を唄者を生やカセットやCDで聴ける機会があった。その時に唄三線はあまり跳ねていないリズムなのにそこに加わる太鼓が跳ねていたり・・その逆もあったり。唄三線を一人でやっていて唄はジャズのスウィングを感じさせるグルーヴがあるのに三線はしっかりとしたスクエアな演奏だったり。その逆もあったり。そのグルーヴのおきどころがとても自由だと感じた。それと同時に私が生まれた時から聴いてきた秩父屋台囃子と沖縄民謡を同一線上に奏でることが可能な気がしてきた。
沖縄から戻り「計画」を実行するために動き出した。秩父屋台囃子と言えば、この人!という人がいる。高野右吉さんだ。二代目高野右吉さんと秩父社中は海外公演も精力的に行い太鼓集団の「鬼太鼓座」や「鼓童」の方達にも屋台囃子を教えている。高野右吉さんに実際に会いに行き私がやってみたいことを説明させてもらった。初め私の意図してるものがあまり通じてない印象があったが(私もうまくやりたいことを言葉で説明できなかった気がする)スケジュールを合わせていただき7、8名で秩父から東京築地に来てもらえることになった。
コンサート当日前半は私のオリジナルや沖縄民謡を演奏し後半二代目高野右吉さんと秩父社中の皆さんに登場していただきその勇壮な屋台囃子の上で沖縄民謡「唐船ドーイ」を歌った。今よりおそらく声が出ていなかったと思う(笑)。ただ小さい頃から聴いてきたリズムの上で自分のイメージするものを「遊ばせて」もらった感触がとても気持ちよかった。
余談だがある本で「集落」のことを「シマ」と呼ぶのは沖縄地域・奄美地域・埼玉県秩父地域という記述を読んだことがある。これが本当かどうかちゃんと調べていないがもしそうだとしたらこの3地域に私は全て関わっていて面白い。秩父ははるか遠い遠い昔まだ人が住んでいなかったような時代に海だったらしい。なのでアンモナイトの化石が出土する。そして象徴でもある武甲山は一説に寄ると『南方にあった火山島が活動を終え浸食によって削られサンゴ礁をまとうようになる。そのサンゴによってできた石灰岩の山』らしい。秩父の南に位置する山深い場所「大滝」という地域の人たちの苗字に「千島(ちしま)」という人たちが多い。たくさんの山がある場所に霧が立ち込めると山の頂上部分だけが浮かび上がりたくさんの島のように見えたから、という話を聞いたことがある。でも海がない地域で島を見たことがない人たちばかりだったのに「たくさんの島」のように見えたというのは不思議な話だ。島を知っている遠くの人たちが移住してきた場所なのだろうか。色々思い巡らせることができて楽しい。
ハシケン画 「秩父夜祭」
そのコンサートのメインとして考えたのは私の故郷・埼玉県秩父に伝わる「秩父屋台囃子」と沖縄民謡の融合だった。日本三代曳山祭りの一つ「秩父夜祭(近年ユネスコ無形文化遺産に登録された)」は、秩父神社の女神様を載せた山車を町中練り歩き、秩父を象徴する山・武甲山の男神様と一年に一度引き合わす祭り事。この祭りに使われる山車はそれぞれ大きく、台車部分上部に屋台囃子を奏でる人たちが天井が狭いながらも入れるスペースがありその上で歌舞伎を演じる舞台も備わった豪勢な作り。江戸時代から行われてきた秩父夜祭は私にとって生まれた時から当たり前の行事。収穫が終わり冬の寒さが厳しさが増す(秩父地方は盆地ということもあり夏は40度くらいまで気温が上がり冬は気温がマイナスになる)12月1日から6日までの期間。6日間秩父神社の祭事はあるがメインは12月2日と3日。小さい頃はお祭りに連れていってもらって冬の乾いた空気に繰り出される豪華な花火を楽しんだ。大きくなってお祭りそのものに行かなくなっても遠くから聴こえてくる地をうねる様に響く屋台囃子と家の窓から見る花火は年末が来たんだなと思わせる最大の恒例行事だった。
秩父屋台囃子は数名の小太鼓に基本一人の大太鼓、鐘、笛で構成されている。小太鼓奏者と大太鼓奏者は途中で入れ替わっていく。集落によって屋台囃子のグルーヴは違う。私が知っていてしかも好きなグルーヴは小太鼓が「跳ねない」スクエアなリズムを刻み大太鼓が「跳ねる」リズムで乗っかっているものだ。このグルーヴが違うものを同一線上に載せ演奏するやり方は世界各地の民族音楽に多数見られる。小太鼓がひたすら「タンタカタカタカ・・・」とスクエアに刻む上に大太鼓が少し横揺れをしながら「ダッドン、ダダダダッドン」などと打っていく。
1993年に沖縄民謡を沖縄県沖縄市で習った時に色々な民謡を唄者を生やカセットやCDで聴ける機会があった。その時に唄三線はあまり跳ねていないリズムなのにそこに加わる太鼓が跳ねていたり・・その逆もあったり。唄三線を一人でやっていて唄はジャズのスウィングを感じさせるグルーヴがあるのに三線はしっかりとしたスクエアな演奏だったり。その逆もあったり。そのグルーヴのおきどころがとても自由だと感じた。それと同時に私が生まれた時から聴いてきた秩父屋台囃子と沖縄民謡を同一線上に奏でることが可能な気がしてきた。
沖縄から戻り「計画」を実行するために動き出した。秩父屋台囃子と言えば、この人!という人がいる。高野右吉さんだ。二代目高野右吉さんと秩父社中は海外公演も精力的に行い太鼓集団の「鬼太鼓座」や「鼓童」の方達にも屋台囃子を教えている。高野右吉さんに実際に会いに行き私がやってみたいことを説明させてもらった。初め私の意図してるものがあまり通じてない印象があったが(私もうまくやりたいことを言葉で説明できなかった気がする)スケジュールを合わせていただき7、8名で秩父から東京築地に来てもらえることになった。
コンサート当日前半は私のオリジナルや沖縄民謡を演奏し後半二代目高野右吉さんと秩父社中の皆さんに登場していただきその勇壮な屋台囃子の上で沖縄民謡「唐船ドーイ」を歌った。今よりおそらく声が出ていなかったと思う(笑)。ただ小さい頃から聴いてきたリズムの上で自分のイメージするものを「遊ばせて」もらった感触がとても気持ちよかった。
余談だがある本で「集落」のことを「シマ」と呼ぶのは沖縄地域・奄美地域・埼玉県秩父地域という記述を読んだことがある。これが本当かどうかちゃんと調べていないがもしそうだとしたらこの3地域に私は全て関わっていて面白い。秩父ははるか遠い遠い昔まだ人が住んでいなかったような時代に海だったらしい。なのでアンモナイトの化石が出土する。そして象徴でもある武甲山は一説に寄ると『南方にあった火山島が活動を終え浸食によって削られサンゴ礁をまとうようになる。そのサンゴによってできた石灰岩の山』らしい。秩父の南に位置する山深い場所「大滝」という地域の人たちの苗字に「千島(ちしま)」という人たちが多い。たくさんの山がある場所に霧が立ち込めると山の頂上部分だけが浮かび上がりたくさんの島のように見えたから、という話を聞いたことがある。でも海がない地域で島を見たことがない人たちばかりだったのに「たくさんの島」のように見えたというのは不思議な話だ。島を知っている遠くの人たちが移住してきた場所なのだろうか。色々思い巡らせることができて楽しい。
ハシケン画 「秩父夜祭」

2019年04月07日
ちゃんぽん。
ふと二十歳の頃バイトしていた長崎ちゃんぽん屋さんのことを思い出しネットで調べてみたらお店が見つからなかった。お店自体なくなってしまったのかもしれない。
バイトしてた東京赤坂にあった長崎ちゃんぽん屋さんは、その当時おそらく五十歳代の女将さんが一人で調理場を切り盛りしていた。そこに私は調理助手のバイトで入った。調理助手と言っても実際には朝からひたすらキャベツを切ること。かなりの量のキャベツを毎日カット。毎日お昼前からお客さんがたくさん来て大盛況。私の切ったキャベツは毎日ちゃんぽんと皿うどんの具となって消えていった。
まかないはちゃんぽん時々皿うどん。美味しかったなぁ。皿うどんに使う細めの炒麺を一斗缶から出して皿に盛りつける仕事も途中からやったなぁ。私と歳が同じくらいの女性がバイト先輩としていてウエイトレスをしていた。バイトをやめてから一度偶然会ったなぁ。女将さんの名前は確か「春さん」。長崎のじゃがいも焼酎「じゃがたらお春」がお店にあった。今だったら長崎からいつ東京に出てどういう経緯でちゃんぽん屋さんを始めたんですか、とか色々訊くと思うがその当時は全くそんなことも考えず春さんに訊くこともなかった。バイトしてた時から約20年経って2008年に実際に長崎に行ってちゃんぽんを食べた時に、赤坂のお店で食べたちゃんぽんの味を思い出した。長崎の人が美味しいと言って勧めてくれたちゃんぽんの味はもちろん美味しかったが、春さんが作ったちゃんぽんが本当に美味しかったんだなぁと再確認もできた。先日九州行ったばかりだが、次回は長崎にも足をのばしたいなぁ。
ハシケン画。どんぶりが深すぎた(笑)。
バイトしてた東京赤坂にあった長崎ちゃんぽん屋さんは、その当時おそらく五十歳代の女将さんが一人で調理場を切り盛りしていた。そこに私は調理助手のバイトで入った。調理助手と言っても実際には朝からひたすらキャベツを切ること。かなりの量のキャベツを毎日カット。毎日お昼前からお客さんがたくさん来て大盛況。私の切ったキャベツは毎日ちゃんぽんと皿うどんの具となって消えていった。
まかないはちゃんぽん時々皿うどん。美味しかったなぁ。皿うどんに使う細めの炒麺を一斗缶から出して皿に盛りつける仕事も途中からやったなぁ。私と歳が同じくらいの女性がバイト先輩としていてウエイトレスをしていた。バイトをやめてから一度偶然会ったなぁ。女将さんの名前は確か「春さん」。長崎のじゃがいも焼酎「じゃがたらお春」がお店にあった。今だったら長崎からいつ東京に出てどういう経緯でちゃんぽん屋さんを始めたんですか、とか色々訊くと思うがその当時は全くそんなことも考えず春さんに訊くこともなかった。バイトしてた時から約20年経って2008年に実際に長崎に行ってちゃんぽんを食べた時に、赤坂のお店で食べたちゃんぽんの味を思い出した。長崎の人が美味しいと言って勧めてくれたちゃんぽんの味はもちろん美味しかったが、春さんが作ったちゃんぽんが本当に美味しかったんだなぁと再確認もできた。先日九州行ったばかりだが、次回は長崎にも足をのばしたいなぁ。
ハシケン画。どんぶりが深すぎた(笑)。

2019年04月06日
STILL THE WATER(映画『2つ目の窓』のテーマ)。
2013年10月、奄美大島でほぼ全編撮影された映画『2つ目の窓』(河瀬直美監督作品)。この映画の音楽を担当することになり度々撮影の現場を見させてもらった。この映画がデビュー作となった村上虹郎くんと吉永淳ちゃんの主演2人は本当の恋人のように撮影中も仲良しでとても初々しかった。
撮影中にすでにテーマ曲になりえる曲は出来上がっていた。奄美北部にある緑が丘小学校のピアノがある部屋を貸していただき河瀬監督を始めキャストやスタッフの皆さんの前で演奏したこともあった。ただその時点ではまだはっきりと「これだ!」と言いきれるものではなかった。
河瀬監督のテーマ音楽に対するイメージは当初明確ではなかった。ただ河瀬監督の言葉の端々に「映画を見終わった後にもはっきりと印象に残るもの、あとでそのメロディを聴いた時に映画の様々なシーンが思い出されるようなもの」そういう音楽を望んでいることはしっかりと受け取れた。
撮影が全て終わり年が明け2014年に入ってもまだテーマ音楽となるメロディは完成しなかった。2014年3月20日頃までに音楽が完成しないと映画の完成に間に合わないいうことだけがはっきりしていた。何回音楽を監督に提出してもOKは出ず・・。2月になり奄美から奈良へ。編集のためにフランスからやってきたティナさんの作業室の隣で私はエレピを弾きながら曲を作り続けた。大阪の吹田に以前から使っていたレコーディングスタジオがありグランドピアノがあることもありそこに奈良から通って録音をしたり河瀬監督の家にあるアップライトピアノを使って曲作りしたり、その時宿泊していたウィークリーマンションでエレピで作曲したり。今思い出してもかなり精神的にもかなりハードな毎日だった。そして自分の頭で描きたい音楽が鳴っていてもそれをしっかりと表現するまでには自分は至っていないんだということも思い知らされた。
そして3月中旬になり期日が迫っていった。すでに映像の編集のためにパリ入りしていた監督とプロデューサーの澤田さんとスカイプで会話している中で「このままだと間に合わないのでパリに来てください!」ということになった。しかも私がパリに到着する翌日にパリのレコーディングスタジオとフランス人のピアニスト、バイオリニスト、チェリストの3人のスケジュールを押さえてあるという・・。
私はフランスに飛ぶための準備をすぐにして3月17日に関西空港からパリ・シャルル・ド・ゴール空港に飛んだ。テーマ曲になりえるメロディは頭の中で鳴っていたので機上でピアノ、バイオリン、チェロ用の楽譜を仕上げていった。今簡単に「楽譜を仕上げていった」と書いたが私は小さいころピアノを習った経験があるものの楽譜を読んですぐに楽器を弾ける人間でもなければ浮かんでるメロディをすぐに楽譜化できるスキルも持ち合わせていない。この時のような場合、本当に「火事場の馬鹿力」が出るんだなぁと改めて思った。
無事パリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着。私のことを空港で待っていてくれた手配していただいたタクシーに乗ってパリ市内へ。編集が行われてるスタジオへ直行し監督以下パリ側スタッフと会った。その日はご飯だけみんなと一緒に行き休ませてもらって翌日早めにレコーディングスタジオに入りミュージシャンが来る前に機上で書いた楽譜が本当に正しいのかどうか確認する作業をしていった。
夕方からミュージシャン3人と初対面。3人とも私が作曲者だと紹介されると、とても敬意をはらってくれて曲の意図をきいてくれて再現してくれそうと最大限努力してくれた。ピアノのダヴィド、バイオリンもダヴィド、チェロのマエヴァ、この3人が初めて目の前で奏でてくれたテーマ曲は、オーケストラもフルでゆうに入れる大きさのレコーディングスタジオに響き渡りとても心地よかった。そしてヨーロッパの人間が奏でた私のメロディによって私はアジアの人間なんだなぁていうことを再認識させてくれた。オリエンタルなメロディではないのにオリエンタルな香りを強くその時感じた。その日、テーマ音楽とテーマ音楽のメロディを散りばめた各シーンの音楽もその3人のフランスミュージシャンによって奏でられ完成。私の仕事が1つ終わった。
テーマ曲録音後の記念撮影。
左から私、ダヴィド(バイオリン)、マエヴァ(チェロ)、ダヴィド(ピアノ)、河瀬直美監督

2014年フランスでのプレミア上映のリハーサル時のテーマ曲演奏。
テーマ曲を含むサントラCDの詳細↓
http://www.hasiken.com/disc/stillthewater_cd
撮影中にすでにテーマ曲になりえる曲は出来上がっていた。奄美北部にある緑が丘小学校のピアノがある部屋を貸していただき河瀬監督を始めキャストやスタッフの皆さんの前で演奏したこともあった。ただその時点ではまだはっきりと「これだ!」と言いきれるものではなかった。
河瀬監督のテーマ音楽に対するイメージは当初明確ではなかった。ただ河瀬監督の言葉の端々に「映画を見終わった後にもはっきりと印象に残るもの、あとでそのメロディを聴いた時に映画の様々なシーンが思い出されるようなもの」そういう音楽を望んでいることはしっかりと受け取れた。
撮影が全て終わり年が明け2014年に入ってもまだテーマ音楽となるメロディは完成しなかった。2014年3月20日頃までに音楽が完成しないと映画の完成に間に合わないいうことだけがはっきりしていた。何回音楽を監督に提出してもOKは出ず・・。2月になり奄美から奈良へ。編集のためにフランスからやってきたティナさんの作業室の隣で私はエレピを弾きながら曲を作り続けた。大阪の吹田に以前から使っていたレコーディングスタジオがありグランドピアノがあることもありそこに奈良から通って録音をしたり河瀬監督の家にあるアップライトピアノを使って曲作りしたり、その時宿泊していたウィークリーマンションでエレピで作曲したり。今思い出してもかなり精神的にもかなりハードな毎日だった。そして自分の頭で描きたい音楽が鳴っていてもそれをしっかりと表現するまでには自分は至っていないんだということも思い知らされた。
そして3月中旬になり期日が迫っていった。すでに映像の編集のためにパリ入りしていた監督とプロデューサーの澤田さんとスカイプで会話している中で「このままだと間に合わないのでパリに来てください!」ということになった。しかも私がパリに到着する翌日にパリのレコーディングスタジオとフランス人のピアニスト、バイオリニスト、チェリストの3人のスケジュールを押さえてあるという・・。
私はフランスに飛ぶための準備をすぐにして3月17日に関西空港からパリ・シャルル・ド・ゴール空港に飛んだ。テーマ曲になりえるメロディは頭の中で鳴っていたので機上でピアノ、バイオリン、チェロ用の楽譜を仕上げていった。今簡単に「楽譜を仕上げていった」と書いたが私は小さいころピアノを習った経験があるものの楽譜を読んですぐに楽器を弾ける人間でもなければ浮かんでるメロディをすぐに楽譜化できるスキルも持ち合わせていない。この時のような場合、本当に「火事場の馬鹿力」が出るんだなぁと改めて思った。
無事パリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着。私のことを空港で待っていてくれた手配していただいたタクシーに乗ってパリ市内へ。編集が行われてるスタジオへ直行し監督以下パリ側スタッフと会った。その日はご飯だけみんなと一緒に行き休ませてもらって翌日早めにレコーディングスタジオに入りミュージシャンが来る前に機上で書いた楽譜が本当に正しいのかどうか確認する作業をしていった。
夕方からミュージシャン3人と初対面。3人とも私が作曲者だと紹介されると、とても敬意をはらってくれて曲の意図をきいてくれて再現してくれそうと最大限努力してくれた。ピアノのダヴィド、バイオリンもダヴィド、チェロのマエヴァ、この3人が初めて目の前で奏でてくれたテーマ曲は、オーケストラもフルでゆうに入れる大きさのレコーディングスタジオに響き渡りとても心地よかった。そしてヨーロッパの人間が奏でた私のメロディによって私はアジアの人間なんだなぁていうことを再認識させてくれた。オリエンタルなメロディではないのにオリエンタルな香りを強くその時感じた。その日、テーマ音楽とテーマ音楽のメロディを散りばめた各シーンの音楽もその3人のフランスミュージシャンによって奏でられ完成。私の仕事が1つ終わった。
テーマ曲録音後の記念撮影。
左から私、ダヴィド(バイオリン)、マエヴァ(チェロ)、ダヴィド(ピアノ)、河瀬直美監督

2014年フランスでのプレミア上映のリハーサル時のテーマ曲演奏。
テーマ曲を含むサントラCDの詳細↓
http://www.hasiken.com/disc/stillthewater_cd
2019年04月05日
ねころんで空、見てる。
1995年リリースの1stアルバム『Hasiken』の2曲目に収録した「ねころんで空、見てる」。この曲はデビュー前、元々オギ(荻原崇弘)とやっていたユニット「うの花」ですでに演奏していた。作曲はオギ(オギのことはこちらもどうぞ)。
「うの花」を始めてからオギがまだ歌詞のついてない曲を聴かせてくれた。それまで一度も聴いたこともない響きがする曲。中学、高校、そして東京に出てからもビートルズを中心に聴いてきた私は、世界のいろんな音楽を「ビートルズ」というフィルターを通して聴く癖がついていたように思う。特にアメリカのブルース、ジャマイカのスカ、インド音楽などは、すでにビートルズが60年代にそれらの音楽スタイルを取り入れた上で咀嚼してビートルズとしてのオリジナリティを加えていた。だから本当の「ブルース」「スカ」「インド音楽」を聴く前になんとなくの雰囲気を知っているつもりになっていた。そしてブルース、スカ、インド音楽以外の音楽の中でもビートルズ自体が影響を受けてきたアメリカの音楽「ロックンロール」やボブ・ディランなどビートルズと同世代の音楽もビートルズというフィルターを通して、ちゃんと聴いたことがないのに知ったつもりになっていた。
初めて「ねころんで空、見てる」の歌詞なしの原曲をオギが聴かせてくれた時、当時私が聴きだしていたジョニ・ミッチェルに通じるものがあるなぁと思いつつ聴いたことのない響きと構成を持った曲だと感じた。どういう経緯で私が歌詞を書くことになったかははっきり憶えていないけど、その曲のメロディや構成が私にとってすごく斬新でトライしてみたくなったのだと思う。
Bメロに出てくる「ランラリラリラリランラリ・・」というところはそのスキャットが面白いのでそのまま残した上で歌詞を載せていった。私は自分作曲の曲ほとんどがメロディ先行。同じ作り方をほとんどの曲でやるけど、何しろひたすらそのメロディを車に乗っていようが散歩してようがシャワーを浴びていようが口ずさむ。「ねころんで空、見てる。」の時もそうだった。ずっとずっと口ずさむことでメロディが自分のものになりある時ふと歌詞の断片がメロディと言葉のイントネーションが見事に合致して自分が納得するメロディとして奏でられる瞬間が訪れる。そこから全体の歌詞に波及していく。
この曲のラストに出てくるタイトルにもなった「ねころんで空、見てる」という言葉がはまった時はとってもうれしかった。
「うの花」でライヴで演奏する時は私とオギは2人ともアコギだった。ツインボーカル・ツインギター。ギターに関して言えば、オギは元々弾いていたコード感やフレーズで私はそこにハモったり別の流れを作るフレーズで合わせていた。
1stアルバム『Hasiken』に収録する際「うの花」で演奏していた時と構成を変えた。変わってるというか、加わっている。歌が始まる前のイントロの部分を長めにしてフェイドインする形をとった。実はこのイントロ部分のスネアドラムをブラシで叩いているのは私。その時のドラマーの平嶋さんに「スネアをブラシで叩く感じでやってもらえないか」と頼んでみたらイメージがはっきりあるなら自分でやってみたら良いよー!と言ってもらえたので自分で叩かせてもらった。
途中のストリングスアレンジはベースの今福さんが担当していてバイオリン2つ、ビオラ、チェロ分の4人分の楽譜も書いてくれた。この曲のためだけに弦楽四重奏の皆さんがスタジオにきてくれた時はかなりテンションが上がった。曲を聴くとレコーディングした時のことが鮮やかによみがえる。
最近歌っていないから5月からのライヴで歌っていきたいなぁ。
1stアルバム『Hasiken』
「うの花」を始めてからオギがまだ歌詞のついてない曲を聴かせてくれた。それまで一度も聴いたこともない響きがする曲。中学、高校、そして東京に出てからもビートルズを中心に聴いてきた私は、世界のいろんな音楽を「ビートルズ」というフィルターを通して聴く癖がついていたように思う。特にアメリカのブルース、ジャマイカのスカ、インド音楽などは、すでにビートルズが60年代にそれらの音楽スタイルを取り入れた上で咀嚼してビートルズとしてのオリジナリティを加えていた。だから本当の「ブルース」「スカ」「インド音楽」を聴く前になんとなくの雰囲気を知っているつもりになっていた。そしてブルース、スカ、インド音楽以外の音楽の中でもビートルズ自体が影響を受けてきたアメリカの音楽「ロックンロール」やボブ・ディランなどビートルズと同世代の音楽もビートルズというフィルターを通して、ちゃんと聴いたことがないのに知ったつもりになっていた。
初めて「ねころんで空、見てる」の歌詞なしの原曲をオギが聴かせてくれた時、当時私が聴きだしていたジョニ・ミッチェルに通じるものがあるなぁと思いつつ聴いたことのない響きと構成を持った曲だと感じた。どういう経緯で私が歌詞を書くことになったかははっきり憶えていないけど、その曲のメロディや構成が私にとってすごく斬新でトライしてみたくなったのだと思う。
Bメロに出てくる「ランラリラリラリランラリ・・」というところはそのスキャットが面白いのでそのまま残した上で歌詞を載せていった。私は自分作曲の曲ほとんどがメロディ先行。同じ作り方をほとんどの曲でやるけど、何しろひたすらそのメロディを車に乗っていようが散歩してようがシャワーを浴びていようが口ずさむ。「ねころんで空、見てる。」の時もそうだった。ずっとずっと口ずさむことでメロディが自分のものになりある時ふと歌詞の断片がメロディと言葉のイントネーションが見事に合致して自分が納得するメロディとして奏でられる瞬間が訪れる。そこから全体の歌詞に波及していく。
この曲のラストに出てくるタイトルにもなった「ねころんで空、見てる」という言葉がはまった時はとってもうれしかった。
「うの花」でライヴで演奏する時は私とオギは2人ともアコギだった。ツインボーカル・ツインギター。ギターに関して言えば、オギは元々弾いていたコード感やフレーズで私はそこにハモったり別の流れを作るフレーズで合わせていた。
1stアルバム『Hasiken』に収録する際「うの花」で演奏していた時と構成を変えた。変わってるというか、加わっている。歌が始まる前のイントロの部分を長めにしてフェイドインする形をとった。実はこのイントロ部分のスネアドラムをブラシで叩いているのは私。その時のドラマーの平嶋さんに「スネアをブラシで叩く感じでやってもらえないか」と頼んでみたらイメージがはっきりあるなら自分でやってみたら良いよー!と言ってもらえたので自分で叩かせてもらった。
途中のストリングスアレンジはベースの今福さんが担当していてバイオリン2つ、ビオラ、チェロ分の4人分の楽譜も書いてくれた。この曲のためだけに弦楽四重奏の皆さんがスタジオにきてくれた時はかなりテンションが上がった。曲を聴くとレコーディングした時のことが鮮やかによみがえる。
最近歌っていないから5月からのライヴで歌っていきたいなぁ。
1stアルバム『Hasiken』

2019年04月04日
ひたすら。
一昨日の天草ばってんでのライヴで3月16日沖縄から始まったハシケントリオとソロのツアーが一段落ついた。2月の各ライヴもかなり充実していたが、今回どのライヴも忘れられない充実したライヴが毎回できた。
以前だって毎回各ライヴがサイコーになるように集中してきたが、ここ最近特に今年に入ってからは以前より毎回に対する集中の仕方や楽しもうと思う気持ち、お客さんに楽しんでもらいたいという気持ちが数段上がっている。毎ライヴ新しい扉を開けている気持ち。ホッとして心地よい疲れが出たのか昨日から今日はほんと眠い。まだまだ眠れる(笑)。ひたすら眠っておこう。次回ライヴは5/3の高槻ジャズストリート。5月のライヴは現状で16回ライヴあるけどもう少し増えそう。楽しみ!それまでまた色々やりたいことの仕込みをしていきたい。待っててね。
ハシケンライヴ情報 http://www.hasiken.com/live

以前だって毎回各ライヴがサイコーになるように集中してきたが、ここ最近特に今年に入ってからは以前より毎回に対する集中の仕方や楽しもうと思う気持ち、お客さんに楽しんでもらいたいという気持ちが数段上がっている。毎ライヴ新しい扉を開けている気持ち。ホッとして心地よい疲れが出たのか昨日から今日はほんと眠い。まだまだ眠れる(笑)。ひたすら眠っておこう。次回ライヴは5/3の高槻ジャズストリート。5月のライヴは現状で16回ライヴあるけどもう少し増えそう。楽しみ!それまでまた色々やりたいことの仕込みをしていきたい。待っててね。
ハシケンライヴ情報 http://www.hasiken.com/live
2019年04月03日
時間が経ってしっくり。
2019年04月02日
天草へ。
熊本のホテルをチェックアウトして今夜共演のキャジーさんに迎えに来てもらい車で天草へ。熊本市内を抜けて行くとだんだんとのどかな風景が広がっていった。道すがらの桜はほとんどが満開で散り始めてる樹もあった。田植えがこれからまさに始まりそうな水をたたえた田が至る所でみられ春がほんとに来ていることを実感。
まずは「みつばちラジオ」にキャジーさんと生出演。テーゲーを生演奏した。天草は車海老の養殖が有名らしくそれならばと海老を出すお店に入り車海老と蓮根のはさみ揚げと天ぷらうどんを食べた。世界文化遺産に登録された崎津カトリック教会にもつれていってもらい、天草市内に戻りながら西側の「鬼海ヶ浦展望所」にも。まだライヴをやっていないのに天草を満喫したような気持ちになる。次回来るときは2、3日ゆっくり来たいなぁ(笑)。今夜天草初ライヴ「ばってん」にて20時から。めっちゃ楽しみ!
www.hasiken.com/live





まずは「みつばちラジオ」にキャジーさんと生出演。テーゲーを生演奏した。天草は車海老の養殖が有名らしくそれならばと海老を出すお店に入り車海老と蓮根のはさみ揚げと天ぷらうどんを食べた。世界文化遺産に登録された崎津カトリック教会にもつれていってもらい、天草市内に戻りながら西側の「鬼海ヶ浦展望所」にも。まだライヴをやっていないのに天草を満喫したような気持ちになる。次回来るときは2、3日ゆっくり来たいなぁ(笑)。今夜天草初ライヴ「ばってん」にて20時から。めっちゃ楽しみ!
www.hasiken.com/live




