私は父親と仲が良かった。私が小さかった頃父親は実家の和菓子製造や配達のいそがしい仕事の合間をぬって(1年の中でお店の休みは1月4日と8月16日の2日間のみ。なぜこの2日だけ休みなのかはまた別の機会に)できるだけキャッチボールをしてくれたり車で出かけてくれた。何事に対してもとても協力的な人だった。日曜日になるとなぜか焼きそばをよく作ってくれた。和菓子屋に生まれた私の小学生の頃の夢は、パリに行ってケーキ職人今でいうパティシエになることだったが14歳の時にビートルズを聴いて衝撃を受けて以来ミュージシャンになることに変わった(このあたりのことはこちらにも)。でも頭の片隅にずっと「実家を継いだ方が良いのでは・・」ということがありつづけ(私が継げば3代目になるはずだった)、地元の秩父農工高等学校(現・埼玉県立秩父農工科学高等学校)の「食品化学科」に入学(ここでパンを焼いたりジャムを作ったり学校に泊まり込みで味噌を仕込んだり・・色々と食品製造を勉強している)。卒業後、同じ埼玉県の入間市に在る和洋菓子店に就職が決まり週6日秩父から通うことになった。初出勤の前日1986年3月23日日曜日秩父は雪が少し降り積もった。雪がやんできていた一面真っ白な屋外で私は父親と何分間か話した。その中で明日からの仕事に行くことにあまり前向きではないニュアンスのことを言った憶えがある。その時父親は少し苦い顔をしながら「まあ・・・行ってみなよ」とやさしく私に伝えた。
私と同期で入った新潟出身の子は会社の寮に入っていたが、私は暇があれば音楽を爆音で思いっきり聴いたりギターを弾いて歌いたいと思っていたので寮に入らず往復約2時間電車に乗って通うことに決めた。でも実際には朝始発で出かけ丸一日働いて終電で帰ってきて実家に戻ったらお風呂にほぼ眠りながら浸かり眠って朝起きたらまた出かけるという毎日。しかも唯一の休日だった月曜日は疲れが出て動けないから結果寝る・・。そんな毎日では最初思い描いていた「暇があれば爆音で音楽を思いっきり聴いたりギターを弾いて歌いたい」などできる時間は全くなく精神的に不安定になっていった。途中からだんだん仕事に行くのがいやになり胃がキリキリ痛むようになり仕事を休み病院に行ったがただ胃痛を抑える飲み薬をもらうだけだった。父親が配達に出かけ母親と2人になった時「もう仕事行きたくないんだよね」と伝えたら「とりあえず1年はなんとか行ってみたらどう?そのあと家で仕事したらいいんじゃないの」という感じで言われた。
私の直近の上司の奥さんが秩父出身だったこともありその上司は私のことをとても可愛がってくれ仕事も積極的に優しく教えてくれた。入社して2ヶ月を過ぎたあたりから、和菓子屋の息子とはいえ実家では焼いたこともないカステラの仕込みから焼きまでトライさせてもらえるようになった。1人きりで最初から最後まで売り物にするカステラを作るのは初心者にはかなり難易度が高い。それでも真剣にじっくり教えてもらえたおかげで何回も失敗しながらも1人でカステラを焼けるところまでいけた。でも私が本心からやりたいことではなかったし生きたい生き方ではなかった。上司は私にできるだけ色々な仕事を覚えてもらって私に仕事を引き継いだ上で、故郷(確か東北)のご実家の和菓子屋に早く戻り継ぎたいという気持ちがあったからこそ真剣に私に手取り足取り色々教えてくれていることも知っていた。
上司の気持ちに応えたいという気持ちがなかった訳ではない。でも結果我慢することや耐えることができず入社してから3ヶ月が過ぎて仕事に完全に行かなくなり家を出て上京し、すでに東京に住んでいた姉の助けを受け東京でバイトをしながら音楽活動を始めた。父親は私に和菓子屋を継いでもらいたい、という気持ちが強くあったことを私は知っていたし、父親は私が家を出た時から相当気持ちが落ちてしまったことを後々母親から聞いた。でも実家に時々帰り実際に会うとそんなことは一切顔や言葉に出さず私を迎えてくれずっと応援してくれた。家を出てから9年が経ち27歳で「グランドライフ-7L3EPT-」(この曲についてはこちらも)でデビューが決まりリリースされるとすぐに父親はUSEN(有線)を契約して和菓子屋の店内で音楽を流せるようにスピーカーも設置して、USENの秩父営業所に電話をして、よくリクエストもしてくれていた。
私が家を出た時父親は本当はどんな想いを抱いていたのかとか、ゆっくり2人きりで色々「あの時ほんとはね・・」みたいに話したり、和菓子屋を継がず家を出てからもずっと応援をしてくれてることに対してお礼をしっかり伝えたかったがその機会は作れないまま2009年9月1日父親は倒れた。その前日8月31日私は北海道常呂町でバイオリン江藤有希さんとライヴをやっていて9月1日はオフでまだ常呂町に滞在していたが父親が倒れたという連絡で急きょ女満別空港から飛行機に乗って羽田に向かいそのまま搬送先の病院に向かった。すでに父親の意識はなく呼吸器や色々な医療精密機器につながれていた。久しぶりに握った手は野球のグローブの様に相変わらず大きく温かった。そのまま意識は戻ることなく亡くなった。
2012年にリリースしたハシケンmeets伊藤大地の2nd『ファンタジー』に「父親」という曲を収録してソロライヴでもよく歌っている。自分のちょっとした時の声やくしゃみをした時の感じとか、年齢を重ねるごとに父親にそっくりになってきてるなぁと最近特に思う。
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父親
作詞・曲 ハシケン
ずっとずっと嫌ってたはずなのに
顔も声も猫背のところも
年を重ねてゆくほど
父親に似てきている
やっと今あなたのこと
少しわかる
もう少し話したかったね
どうしても
切り出せなかったことばかり
いつからか
本音を避けていたね
ほんとはどんなこと
思ってたの?
隠れて泣いた日も
あったの?
夕焼けに染まりながら
手を繋いで
歩いた日を
思い出す
年を重ねてゆくほど
父親に似てきてゆく
やっと今あなたのこと
少しわかる
もう少し遊びたかったね
